05 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

空海が行く

俳句 猫 庭 のこと

やんぬるかな65 

やんぬるかな65  
 前回は、「ももももももも句会」の真紀さんの句で終わった。右脳、左脳を動員して読み解こう。
土砂降りの街を漂う海月かな   岡崎真紀
若者の俳句を映像化すると、どこか漫画の絵コンテの様に見えてくる。先日のNHKの俳句は、若手俳人の高柳克弘さんとゲスト漫画家の浅野いにおさんだったが、二人の話を聞いてますますその意を強くした。
漫画世代だからとネットで海月を検索すると、『海月姫』があった。これは、「己の趣味のみに没頭するオタク女性」の話だから、揚句とはかなり別次元だ。やはり海月・水母・水月・クラゲの持つイメージを再確認しよう。刺胞動物門に属し淡水または海水中に 生息し浮遊生活をしていて、ゼラチン質のぷよぷよな体。”無い”もののたとえに「水母の骨」、ことわざには「水母の風向かい=無駄な事」、「水母の行列=勝手気ままに浮いて、きちんと並んでいないこと」などがある。”骨太”と真逆のクラゲはまるで、エイリアンの様だ。”土砂降りの街!”そこは、まるで水中であるかのような世界!海月となって浮遊している女の子がいる!そんな場面を描いてしまった。
さて“土砂降り”という悪条件にクラゲは打ちのめされないだろうか?いやいや寧ろ水中でこそ力を発揮できるのだ。若さという可塑性を強みに漂うのだと・・。
 他にもいくつかの海月の俳句を見ながら、海月の気持ちになってみたい。
  海中をいそぐ海月の三度笠 小林英昭(滑稽俳句)
  水母よりビニール袋浮き上手   茨木和生
  水面に浮き上がらずに水母浮く   〃
  わだつみに物の命のくらげかな  高浜虚子

水から上げるとすぐに溶けてしまうくらげを「物の命」と言い切った。わだつみは、「海神」の事だ。わだつみとくらげの関係は深遠としか言い表せない。
  乳いろの水母流るるああああと  吉田汀史 
漢字で「水の母」と書くと乳いろが生きてくる。ああああと・・原初の音は「あ」から始まるのだ。言葉を超えた言葉ではないか。清水哲夫氏の言葉を借りると、「水母から見た人間はどうなのだろうか。私たちは自力で歩いているのだが、彼らにはただ風に漂い翻弄されているだけと映るかもしれない。それも、やはり「ああああ」と啼きながら……だ。句からは、水母のみならず、生きとし生けるものすべてが「ああああ」と流されていく弱々しい姿が、さながら陰画のように滲んで見えてくる。」   
「ああ・・」十七文字の宇宙に漂ってしまった。海月が宇宙ステーションの様だからなどと単純ではない。
       ***
 俳句をジャンルの違う人が解説すると「目から鱗!」楽しい。金光図書館で「俳句の海に潜る」(角川書店)を借りてきた。思想家で、人類学者の中沢新一と俳人の小澤實さんの対談である。中沢さんの前書きに、    
そら豆はまことに青き味したり  細見綾子
【この句を見て私はいきなり古代ギリシャの哲学集団ピタゴラス派の戒律のことを思いだしてしまったのである。ピタゴラス派は教団内で蚕豆を食べる事を厳禁した。・・ある哲学者の説によれば、女性を連想させる・・だそうだ。エロティックな俳句ですことと、私は口走ってしまった。】
これが、小澤さんと出会いだそうだ!誰もが良く知っている次の俳句も彼が解説するとこうなる。
閑さ(しづか)や岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 【この句はまさにアニミズムの極地でしょう。〈岩にしみ入る蝉の声〉と言うとき、蝉を流れるスピリットと岩を流れるスピリットが、相互貫入を起して染み込み合っています。それが〈閑さや〉というわけです。この立石寺という寺は、昔は死者の谷と言われたところです。山の中にはいっぱい横穴墳墓があって、あの地帯に住んでいたエゾ系の人々の埋葬地として使われていました。そこに立石寺というお寺が建てられた。お寺というのは先ず例外なく埋葬地に建てられるものでした。芭蕉にもその知識は十分にあったと思います。人間の体(骸むくろ)から自由に、つまり休止点から自由になって見えない流れに戻った霊が、しばらくの間はあの谷にうじゃうじゃ居るのです。・・・元禄当時ならそういう知識もまだ日本人の中に十分残っていましたし、立石寺のお坊さんであれば、そのことを怖いほどリアルにしゃべっただろうと思います。・・・今は観光バスが停まって開けた場所ですが、昔は一面の森に覆われた細い一本道をたどっていく場所です。・・人っ子一人いないような山道を、小一時間歩いて、ふっと見上げるとそこにお堂があらわれてくる。・・そんな世界・・・だから人間の体という容器から外に出て来たばかりの霊たちが、いっぱい群れ集まっている。そういうところに、土中から出てきたばかりの蝉が鳴くのです。そこには土中から立ち上がってきた岩もある。大地、岩、蝉、死者霊、それらすべてが相互貫入しあう世界。芭蕉は全感覚を開いてその全体運動を感知しています。そしてこの俳句が生れたこれは。とても凄まじいアニミズム俳句です】
中沢さんの仕事はアースダイバーと言う。直訳すれば、大地(地球)に潜る人のことだが、思想的に潜る!と理解しよう。今回は「俳句の海に潜る」という切り口で「俳句が、言語の中でも特にメタファー(暗喩)の能力をフルに使う」ことと、アニミズムとの深い本質的なつながりに言及している。彼によると
【詩は人類最初の芸術です。人類が生れたとき、詩も同時に発生したのではないかと思うのです・・脳の中に流動的知性が発生すると、今まで分れていたジャンル同士をつないでいく精神の運動がおこります。その能力が発生した瞬間に、根源的なアニミズムが同時に発生するのです】とある。

また、前衛俳句の代表みたいな金子兜太さんも、古代人の本質につながっている!と主張する。 
 アニミズムらしい俳句を小澤實さんが選句している。
 採る茄子の手籠にきゆァと鳴きにけり飯田蛇笏
人来ればおどろきおつる桐の花   前田普羅
 蟋蟀が深き地中を覗き込む   山口誓子
 おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太
 
一口でアニミズムとは何だろう?
「宗教の原始形態の一つで、世界のすべての事物に霊魂や精神が存在すると信じる心的状態」のことだ。聖地とか聖所というのは神社が出来る前からあった。古墳時代や弥生時代、縄文時代、旧石器時代を生きた人たちの信仰心はもっとずっと深かった。そこにつながっていくルート?生命力の根源?にたどり着きたいと旅をする。芭蕉はなぜ東北に行ったのか?「俳句はこのままいったら言葉のゲームになってしまうかもしれない」という危機感を持ち、古代的感覚への「通路」を作ろうとしたからと言う。芭蕉は縄文的な感覚を持ったアースダイバー俳人だからだ!と。
雲の峰幾つ崩れて月の山    芭蕉 
小澤實さんも虚子におけるアニミズム俳句を検証して次の様に評した。
「昼の星のスピリットと菌を流れるスピリットが、相互貫入を起こし染み込み合っているのを感じる」

爛々と昼の星見え菌生え    虚子    
    やんぬるかな!
 

スポンサーサイト

Posted on 2017/05/26 Fri. 07:36 [edit]

category: やんぬるかな

TB: 0    CM: 0

26

コメント

Comment
list

コメントの投稿

Secret

Comment
form

トラックバック

トラックバックURL
→http://yasukoenjoy.blog.fc2.com/tb.php/242-5cde7b09
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Trackback
list