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空海が行く

俳句 猫 庭 のこと

やんぬるかな47 

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やんぬるかな47  工藤泰子
 前回は楸邨、誓子、草田男の句と次の句で終わった。
   秋風や模様のちがふ皿二つ    原 石鼎 
この句の前書は「父母のあたゝかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去って仮の宿りをなす」となっている。吉野時代の後、山陰地方を放浪中の句である。食卓の上に置かれた模様が異なる二枚の皿のように、人間もまた一人として同じ者はない。分かり合えない苦しみや寂しさを「秋風」に感じている。背景には、恋愛事件もあると言われている。
山本健吉は「二枚の皿の模様の違いという些細なものをとらえて、しかもそこに打ち出された作者の主観は非常に強いのである。」と解説している。
 石鼎(せきてい)は、出雲の代々医者の家系に生まれた。学生時代、文学活動に熱中し、やっと京都医学専門学校に入学するも、二度の落第で、放校処分となった。26歳の時、吉野の鷲家村で次兄の医業を手伝いながら、「ホトトギス」に投句していた。
虚子に「大正二年の俳句界に二の新人を得たり。曰く普羅、曰く石鼎」とまで評された。
しかしながら、帰郷した折に、医者になれなかったことを叱責され、両親から勘当され、再び放浪を始めてしまう。同情した虚子に呼ばれて「ホトトギス社」に入社。その後も「東京日日新聞」嘱託、志賀コウ(原コウ)との結婚などを経て、「鹿火屋(かびや)」を発行、主宰(35歳)に至る。関東大震災以降は神経衰弱に苦しみ、虚子との対立は深まった。
註【高浜虚子が主宰した俳句雑誌「ホトトギス」は数多くの有力作家を輩出した。その第一の波とも言うべき作家群は、大正初期に集中して登場した村上鬼城渡邊水巴、前田普羅、飯田蛇笏、原石鼎等であり、これらの作家は「大正ホトトギス作家」と総称される。大正ホトトギス作家の作品の特徴は、自然の事物の描写を通して、永遠なるもの、神秘的なものへの憧れを高らかに表現する ところにあった。その文体は古風で格調高い。俳句の題材となるのは、山や谷、海、空など、スケールの大きい景色であり、またそのような大自然に囲まれた人間の生活であった。】
 
   頂上や殊に野菊の吹かれ居り     石鼎
東吉野村は、原石鼎の俳句開眼の地である。
この深吉野の石鼎を語る上で欠かせない場所が、鳥見霊畤址(とみのれいじあと)である。鳥見霊畤は、神武天皇が橿原宮で即位の後、戦勝を神に感謝して秋津野の鳥見山中に建てられた祭りの庭で、宇陀や吉野の山々を一望できる「頂上」であった。ここで石鼎が、霊感に打たれて詠んだのが、掲句である。
【山本健吉】季語や主観語でもないもの初語の「や」止めに用いた無造作さ、「殊に」という一種の素人くさい言い回しなど、こういった句が大正期の俳句界における軽やかで自由な表現のさきがけをなした。
【虚子】頂上や、という一言での舞台設定。殊に、という感動の強め。ひたすら吹かれている野菊で象徴(文学的昇華)を極めている。明確な対象把握、勇壮で大胆な知的作風。 石鼎の主観的写生の極致。
次の「鹿火屋」の句は、石鼎が、「鹿火屋守」の句ができたときの淋しさを一生忘れまいとして誌名としたといわれている。草深昌子氏の評によってここまで俳句は立ち上がるのだと感動したので、紹介したい。

  淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守    石鼎
草深晶子】鹿火屋(かびや)は、夜中に鹿や猪が出て来て農作物を害するのを防ぐため、火を焚いて警戒する番人の小屋である。森閑たる静寂が一句には長く存在している。谷に反響するであろう余韻余情がそのまま吉野山中の奥深さであり、一句の奥深さでもある。鹿火屋守たる山人の、捨て鉢ともいえるような所作が、なにがなし典雅な色合いを帯びて認識させられるのは、淋しきが故に打ち鳴らしたと感受した石鼎その人のさびしさに連動しているからであろう。誰しも、目前にあるものを打ち鳴らさずにおれぬのは、生きて在ることのさびしさからではないだろうか。
 鹿火屋守はまるで石鼎その人のようである。石鼎俳句の蒼古たる抒情は、ここに端を発しているのであろう。吉野時代のどの句も、濃密でありながらその表現はねばらない。(深草昌子ブログより)
石鼎は、十二月二十日、「私の骨を吉野に」の言葉を残し、亡くなった。六五歳だった。
        辞世句
   松朽ち葉かヽらぬ五百木無かりけり  原 石鼎
彼の死後、「鹿火屋」主宰は妻のコウ子、養子の原裕、現在は原和子(裕の夫人)が継承している。
  瑠璃ながす空に一鳥 石鼎忌     原 コウ子
  杉山の荒れを痛めり 石鼎忌      茨木和生
  
  俳人協会賞受賞藤本安騎生句集「深吉野」より
   深吉野に棲みて九年 石鼎忌    藤本安騎生
   大寒の日差畳に 石鼎忌       山中弘通
  
   芽起しの雨の木雫 石鼎忌       〃
東吉野村では、平成元年から、ふるさと創生事業の一環として「俳句の里」作りが進められてきた。これまでに多くの句碑が建立されている。(その一部)
  日の神が青嶺の平照らします    山口誓子
  あるときは一木に凝り夏の雲    原 裕
  よき淵に下りる径あり宮涼し    森田 峠
  おのづから伊勢みちとなる夏木立  桂 信子
  月の出の木にもどりたき柱達    鈴木六林男
  絶滅のかの狼を連れ歩く      三橋敏雄
  冬菊のまとふはおのがひかりのみ  水原秋桜子

私の所属結社の「運河」では三月に、東吉野の“俳句の宿”「天好園」で「句集祭」をする。一昨年は、九州の句友と「石鼎庵」まで足を伸ばした。そこは、天照寺の隣で、遺言どおり分骨され、旧居を移転し資料館になっている。句碑はその場所から川向の陰地を詠んだものだ。  
   かなしさはひともしごろの雪山家    石鼎
  季節は違うが、石鼎庵で詠んだ句を・・
  石鼎の麻着といふがかかりけり   山本洋子
  石鼎を小柄と思ふ単衣かな     井上綾子
  石鼎の碑や朴の芽の空となり    工藤泰子

 
石鼎が吉野に過ごしたのは二年に満たない。吉野にはすべてを抱き込む深い大自然があった。吉野には魅かれる何かがある。
          「写生より想像力へ」が、鹿火屋俳句の根幹となった。
   鶲(ひたき)来て色つくりたる枯木かな   石鼎(大正6年)
   雪に来て美事な鳥のだまり居る  〃 (昭和8年)
   
さて吉野ばかりが俳句の里ではない。地元の句碑も巡りたいものだ。次の「枯蓮」の句碑は津山の三鬼の生家跡に建てられた。
    枯蓮のうごく時来てみなうごく   西東三鬼   
      今年もあとわずか・・    やんぬるかな!

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Posted on 2015/11/29 Sun. 14:10 [edit]

category: やんぬるかな

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