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空海が行く

俳句 猫 庭 のこと

やんぬるかな7 

  やんぬるかな〈7〉  工藤泰子
 前回は山頭火の句「ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない」で終ったが、私は熟睡した。
山頭火というと「後ろ姿のしぐれていくか」の網代笠を思い出す。出家得度し「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」のは四十四才であった。
それには非業の死を遂げた母への鎮魂の思いがある。
分け入っても分け入っても青い山(九州、五ヶ瀬)
炎天をいただいて乞ひ歩く(放哉居士の作に和して)
 歩きつづける彼岸花咲きつづける
 この旅、果もなし旅のつくつくぼうし
 笠にとんぼをとまらせて歩く
 だまって今日の草鞋穿く
 生き残ったからだ掻いてゐる
 わかれきてつくつくぼうし
彼は二十九才の頃には「田螺(でんる)公(こう)」の俳号で有季定型の俳句を作っていたが、荻原井泉水に師事「山頭火」の俳号で、自由律俳句を作り始めた。防府(山口県)俳壇の中心的存在だった。三十四才の時、破産し以来、一家離散、離婚、神経衰弱、出家、「常乞食」となる。
 山頭火の実生活は乞食「コジキ」のようだが、乞食「コツジキ」であり禅的な生き方であった。
 彼の「行乞記」(昭5)に「歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい」とある。飲むは「酒」、作るは「俳句」。家業は酒屋だった。
また「芭蕉の言葉に、我が句は夏爐冬扇の如し、といふのがある。俳句は夏爐冬扇だ、夏爐冬扇であるが故に冬爐夏扇として役に立つのでは・・・」と書いている。執着を捨てろ!逡巡の日々だった。
捨てきれない荷物のおもさまへうしろ
けふもいちにち風をあるいてきた
晩年は松山の「一草庵」(御幸寺境内)に入庵し、自選句集「草木塔」を出版し、本人の願い通りにコロリ往生をとげた。五十八才だった。
 子規の没後、俳壇は虚子と碧梧桐とに二分された。碧梧桐の新傾向俳句は井泉水、一碧楼らによりさらに深まり、季題や定型を離れた自由律は、放哉と山頭火に受け継がれたが、俳壇を主導することはなかった。
皆川盤水の「俳句の上達法」に松瀬青々と細見綾子(初学の頃のこと)の問答があったので、引用する。
綾子「一口に言ってどんな句がいい句なのですか」
青々「季語がズバッとよく表れているのがよい句です
綾子・・「季語がとても窮屈で・・・」
青々「季語は俳句の約束だと思ってどんどんお作りなさい。そうでないなら、俳句なんかおやめなさい」
日盛りに蝶のふれ合う音すなり  青々
白木槿嬰児も空を見ることあり  綾子
月山に速力のある雲の峰   盤水
こがね虫なげうつ闇の深さかな 虚子
虚子は平凡な生活者にも俳句をと「客観写生」の方法を提唱したが、決して平凡なんかではない!
闇の深さが・・ますます深くなった。やんぬるかな!
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Posted on 2012/07/24 Tue. 07:50 [edit]

category: やんぬるかな

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