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空海が行く

俳句 猫 庭 のこと

やんぬるかな30 

やんぬるかな30 工藤泰子

 前回は明治生まれの女流俳人の中から竹下しづの女・杉田久女・橋本多佳子・三橋鷹女・中村汀女・石橋秀野・細見綾子を紹介した。
  そら豆はまことに青き味したり   綾子
  つばめつばめ泥が好きなる燕かな   〃
 
「俳句は存問」と言ったのは虚子だが、「自然から存問される恩恵の深さははかり知ることはできません」と綾子の句集「存問」のあとがきにある。
さて「存問」の意味は、挨拶のことである。調べ始めるとどんどん深みに嵌ってしまうので、坊城俊樹の「高濱虚子の100句を読む」から引用する。            
     虚子一人銀河と共に西へ行く    虚子
 (昭和二十四年七月二十三日)
夜十二時、蚊帳を出て雨戸を開け、銀河の空に対す。
   これは存問の詩である。
 虚子の謂う存問とは銀河にたいする挨拶のことである。そして、それは同時に自然界にたいする挨拶でもある。和歌の世界では本来、相聞と謂い、より大きな自然界への存問であると言っていい。
 その存問には一瞬のうちに森羅万象、宇宙存在すべてが含まれている。
 虚子が提唱した俳句の言葉に「主観」「客観」もあるが、俳句に共鳴する!ことは出来ても理解は自分のレベルの範囲を出ない。最後に次の句で締めくくっていた。
    西方の浄土は銀河落つるところ   虚子

 このような主観の句は晩年に多く見られるが、それはすなわち虚子の客観の句の最終形態であったのかもしれない。
 「高浜虚子 俳句の力」で第26回俳人協会評論賞を受賞した岸本尚毅の対談の記事が気になっているので、その一部を紹介してみる。
**「虚子が、俳句を鳴らしているというのは、まったくそうですよ。すごく気が楽になりますよね、鳴らせばいいんだと。秋桜子や誓子は、自分の声で一所懸命歌っているんだけど、虚子はバチを持って俳句をばーんと叩いて、自分は黙っている」**
**「言葉の上ですべてを実現しようとするのではなく、読み手に響くように「鳴らす」んだということですよね。「想像力」に託すとも言われていますけど、相手の心に何かを起こすように、言葉をひじょうな巧みさで使う」**
さすが評論賞の感度は違う。いくら頑張っても感想文しか書けないのにと・・・・反省しきり!
 (岸本尚毅:岡山県和気町出身 1961年生まれ)
    てぬぐひの如く大きく花菖蒲  岸本尚毅
   墓石に映つてゐるは夏蜜柑    〃
   この島に人来る季節竹婦人    〃

 はて“奏者の技術”と“楽器”にも違いがあるのに・・!と言うことは棚上げせざるを得ないが「音?」の受けとめ方には戸惑うばかりだ。

「西の季語物語」で第十一回俳人協会評論賞受賞の「運河」茨木和生主宰は「ものに語らせる」と言っている。私が入会してかれこれ20年になる運河だが、句会はたいがい吟行とセットである。いわゆる「俳句の現場」に立ち合うことができたのは有難かった。この本は民族学的にも価値ある文集だ。
帯文;「 季語は待ち、賞で、惜しむもの。奈良に生れ京都に住む行動派の著者が、濃密な体験を通して綴る西の風土と季語礼賛。失われゆく生活伝承を愛惜しつつ、活力に充ちた俳句の現場を再現する」
  山高く働く人に青嵐       茨木和生
  きりころと聞けばころきり雨蛙   〃 
  水馬雨かと思ふ動きせり      〃
  

 二年前、同人誌「湖心」に「猫にスキャット」というエッセイを書いていた。諸事情で湖心が終刊したので33回までとなった。その後「遥照」に「やんぬるかな」を書き出しそれが今度30回になる。
今回はその同人誌「湖心」のことに少し触れたい。
 【俳句年鑑】より;「湖心」は平成一六年に佐滝幻太が徳島で創刊した同人誌。文章が多く純粋さと自由をモットーに編集している。師系 茨木和生 [季刊]
  寂鮎の落ちねばならぬ山河あり 佐滝幻太
  春昼のどこへも届かざる梯子  谷口智行
  無言館に刻止まりたる寒さかな 喜岡圭子
  月明に水音ひびく山葵沢    野中千秋
  岡山はあっぱれな国稲架襖   工藤泰子

エッセイや俳句で注目の檜尾とき魚、堀瞳子、池端順子、新居三和など多彩な顔ぶれだった。
「湖心」の句鑑賞は、「遥照」の花房柊林、「晨」の奥田節子、「航標」「槐」の木下野生にお願いした。
文章では《俳句界》に連載中の「箏漏亭日常」の矢島康吉は「古本茶話」を。谷口智行は「日の乱舞・物語の闇」「熊野、魂の系譜」を「湖心」の文章などその他をまとめて出版した。
次の佐滝幻太の「現代俳句・評論集」を紹介する。
    副題は「掬った水に揺れている月影」

【俳句界評論賞】の受賞作品‖「加藤楸邨論」。「湖心」から「茨木和生論」、「寺山修司論」、「木下野生論」等。また《俳句界》に連載した《時評》から「姜琪東論」「未来の俳句のために」が収録されている。
その一部を覗いてみよう。
**外山滋比古氏がその著「俳句的」の中で書いている。「俳句は徹底した藩別制度の上に立っていた。ひとつひとつの小藩がめいめい独自の方言でしゃべる。となりの藩とは言葉が通じない・・・・・」
結社は、俳句を学ぶ場としてもっと風通しをよくしなければならない。さらには、他の結社とも自由に交流して「藩の壁」を打破しなければならない。そうするところから作品評価の共通認識も生まれるのではないかと私は思うのである**
さて「掬った水に揺れている月影!」と言う副題が謎を深めるばかりだが・
幻太句集「空空(くうくう)
の「表記」と題した一章の実験は興味深い!
〈ことばが文体を定め、文体がことばを選ぶ日本語は陰影に富み豊かである〉  
  さざなみのあふみにつかふあきあふぎ 幻太
  南無大師遍照金剛蟇          〃
  モーツアルトはかなかなになりました  〃

再び外山滋比古氏の言葉を借りる。「俗語の詩化。ここで創造の火花が散る。手垢のついた常套手段では精神の根源をゆさぶるのは困難である。俗の言葉に雅の世界が待望される」
 俳諧から生まれた俳句は大衆文芸である。その伝統を守るためにも、多様な俳句を受け入れ、将来にわたって俳句人口が増えるように努力するべきではないだろうか。「不易流行」の「流行」はそうした精神の有り様を指し、それが即「不易」に通じる道だからである。**
著作には評論「鬼たちの火祭り」があり、笹野儀一の「邃き〈ことば〉の海底から」は句集「空空」論である。
 湖心のメンバーの一部は「ネット」に移行し「凸凹木偶の俳句あれこれ」で色々と模索中だ。
  虹消えてサーカス小屋が残りけり 佐滝幻太     
  かたつむり覚悟決めたる型をもち  〃
  航跡と判定致すぞなめくぢり    〃
  △や○のピカソへ水中花      〃
 
先日近くの小川で蛍を見て、心が彷徨った。
   蛍と息を合わせば忙(せわ)しない    佐滝幻太
  蛍呼ぶわれと思へぬ声出して     茨木和生 
  死螢夜はうつくしく晴れわたり      宇多喜代子
 

宇多喜代子の著書にひとたばの手紙から」(邑書林出版)がある。“女性俳人の見た戦争と俳句”                
     ”晴れわたり”の措辞は一方ならぬと思った。
                  やんぬるかな!
                              敬称略
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Posted on 2014/06/23 Mon. 21:35 [edit]

category: やんぬるかな

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コメント

意外にも 

徳島の俳誌「航標」を検索中に、工藤さまのサイトに辿りつくとは思っても見ませんでした。ちなみに「晨」の奥田節子さんには一度、お会いしたことがあります。(私も「晨」に所属しています)

URL | 海音 #I9hX1OkI | 2014/07/07 21:34 | edit

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